なんと稚内市役所に勤めつつ、第52次南極地域観測隊の一員として南極に行った経験のある市川さん!そんな市川さんに稚内市ならではの働き方や観測隊として派遣された際の貴重なお話を伺いました。
—まずは簡単に自己紹介をお願いします。
市川:平成6年に入庁し、最初は総合文化センターに配属されました。当時は文化ホールが市の直営だったので、照明や音響という、いわゆる舞台技師のような仕事をしていました。平成20年に指定管理者制となるまでずっと文化センター勤務だったので、平成20年に初めて市役所で勤務することになりました。
その後、教育委員会や南極地域観測隊派遣、エネルギー対策課を経て現在は人事厚生課で課長をしております。
—南極地域観測隊!!すぐでもお聞きしたいですが、後程じっくりと聞かせていただきますね。稚内市役所は何故受験しようと思ったのですか?
市川:私は生まれも育ちも稚内市で、大学は札幌に通っていました。父も祖父も国鉄、今でいうJRに勤めていたので、自然と私もJRに入ろうと考えていました。私が通っていた大学では、毎年JRに推薦の枠があり、私も無事学校推薦をいただくことができたのですが、正に就職氷河期時代だったため、なんとその年は出身校からは採用してもらえなかったんです。
JRの他は全く考えておらず、その時期だと募集している企業自体もほとんどなかったのですが、幸い稚内市役所で職員募集をしていたため受験をしました。
実は弟も高校卒業で稚内市で消防吏員になっており、弟と私は職種は異なるものの同期なんです(笑)同じ職場に兄弟もいるので、結果的には稚内市役所に入ってよかったなと思っています。
—では、南極地域観測隊派遣のことについて聞かせてください!そもそも何故稚内市から職員が派遣されることになったのでしょうか?
市川:皆さまご存じのとおり、稚内は日本の最北端に位置しており、距離的には最も遠いですが、南極に最も近い自治体です。また、第1次、第2次観測隊でそりを引いたカラフト犬が稚内で訓練されていたことなどもあり、昔から南極と稚内市はパイプがありました。
第46次隊の総隊長が稚内気象台の台長だったのですが、せっかくならば稚内市からも職員を派遣してみないかという話になり、当時の私の先輩が全国で初めて自治体職員の身分をもったまま観測隊として派遣されたんです。
そこから、毎年というわけにはいかないのですが機会があればということで、数年に1度職員を派遣するようになりました。
ちなみに、当時の市長は当選前から本当に南極が大好きな方だったので、派遣に関してはとても前向きでした。また、職員としても大きな学びになるということで、市議会からも是非派遣すべきだと言っていただいておりました。南極派遣に関しては、本当に町をあげて賛成しているという感じですね。
—市川さんはどのようにして派遣されたのですか?
その先輩が派遣終了後、私と同じ所属になったのですが、「次どうだ?」とは良く聞かれていましたね。私は日本でやりたいことがあったので、当初は全く行くつもりがなかったのですが、毎日のように南極の話を聞かされていたせいか、気が付けば募集と同時に手をあげていました(笑)
そこから市役所内での選考会を経て市として推薦され、国基準の健康診断に合格し、候補者として登録され、文部科学省の総会で初めて隊員として決定されます。市役所内の選考会から実に1年4か月ほどかかるんです。
結果的に平成22年11月から平成24年3月までの1年4か月間、第52次南極地域観測隊の一員として南極に派遣されました。
—市役所ではどのくらいの人数が手をあげるのですか?
市川:私の時は、私ともう一人だけでした。少ないと思うかもしれませんが、国立極地研究所からは30代半ばの職員を派遣してほしいといわれていて、その年代は正に結婚や育児で家庭が忙しくなる時期なんですね。派遣期間の1年4か月ほど完全に家を空けるとなると、現実的にはなかなか厳しいみたいです。
—実際に南極ではどのような業務に従事していたのですか。
市川:私は基本的には庶務を行っていました。隊は30人いたのですが半分は研究者で、残りの半分はドクターや料理人といった専門職となっています。そのため、庶務全般は私一人で対応していました。庶務とはいっても本当にやることが沢山あります。いつの隊でも、庶務担当は一番大変だねと言われるくらい忙しいです。
—南極派遣中、どのようなことが大変でしたか?
市川:ちょっと聞こえが悪いかもしれませんが、人間関係やメンタルを上手く取り持つということにとても神経を使っていました。30人が1年半近く閉鎖的な環境で共同生活を送るので、人間関係が崩れてしまうともう修復ができなくなってしまいます。
隊としては、誰も残さず全員で無事に帰るということが最大のミッションなのですが、研究が思うように進まずメンタル不調となってしまう研究者の方もいました。
また、私が派遣されたときに丁度東日本大震災が発災したので、家族と連絡が取れない隊員や、自分達はここにいてもいいのかと思いつめてしまう隊員など、本当に心身のバランスは乱れていたかと思います。私は何とか家族と連絡が取れるようにしてあげようと、昼夜を問わず連絡調整に努めていました。
—南極に行ってよかったなと思えるのはどのようなことですか?
市川:南極にはペンギンもいましたしオーロラだってみることができました。これらももちろんとても貴重な体験でしたが、何より調査期間を共に過ごした30人と出会えたこと、これは本当によかったです。今でも第二の家族だと思っていますし、彼らのためであれば自らを擲(なげう)つことができると思っています。
また、南極派遣を経たおかげで、全てを自分事として考えられるようになりました。ゴミの最終処理や汚水の処理など、南極では自分達でやらないと誰もやってくれません。水や電気も尽きてしまえば命に関わるので、全て自分事として取り組むようになりました。もちろん専門家はいるのですが、それでも自分のことは自分でやるしかないんです。
—とても貴重な経験でしたね。そんな市川さんから見た、稚内市で働く魅力を教えてください。
市川:南極にしかないもの、稚内市にしかないもの、稚内市でしかできないことが沢山あります。例えば今年度は国立極地研究所にまた1名派遣することが決まっています。隊員として選ばれるのは来年以降になりますが、国立極地研究所とは昨年改めて包括連携協定を結んだため今後も人事交流が見込まれます。
南極地域観測隊派遣の周期ははっきりとはきまっておりませんが、市としては今後も南極派遣を継続していきたいとも考えています。
実は稚内市は環境都市宣言もしており、温暖化について自分たちの町でできる取り組みを進めています。大きな意味では、南極をその目で見てくるというのも環境に関する取り組みの一つですね。
あまり知られていないかもしれませんが、稚内は風車や太陽光発電といった、いわゆる再生可能エネルギーにも力を注いでいて、風車による発電量はなんと市の消費量のおよそ3倍に相当します。
こういった環境、エネルギー分野と南極をかけ合わせた業務に携わることができるということも、稚内市で働く大きな魅力なのではないでしょうか。
—所属長として何か心がけていることはありますか?
市川:現在は人事厚生課長をしておりますが、実は南極派遣を除けば総合文化センターと教育委員会とエネルギー対策課の3課しか経験したことが無いんです。なので、人事厚生課長になると決まった時にはどうしたものかと思い、南極派遣時代の仲間に相談したんです(笑)
そうしたら、「30だった仲間が300人の職員になるだけだ、あれから10年経ったお前ならできる。人を見捨てるようなことだけは言うな」と言われました。それで気合が入ったといいますか、人事厚生課長として、入庁した仲間が、楽しくやりがいを持って積極的にチャレンジできる職場にしたいと思って働いています。
これは部下にも伝えていることなのですが「和をもって尊しとなす」これを大事にしています。何でも話し合うことが大切、話し合って納得した結果なのだから、皆で協力して頑張ろうということですね。
—最後に求職者の方へ一言お願いします!
市川:自治体職員はどこも同じと思うかもしれませんが、稚内市には鉄道もあり、空港もあり、港もあり、南極とのパイプもあります。よそではできない仕事ができる、そんな経験ができるということは働くうえで必ず楽しみにもなります。
市民サービスだけではなく、インフラに関係する業務もたくさんあります。
是非、仲間となって一緒に働いてみませんか!