取材の冒頭、話題は意外な方向から始まりました。「今日、地下食堂で肉のデカ盛り丼やってますよ。重量1.3キロです。部長もどうですか?」
広報課長からの誘いに、「午後は動けなくなるかもしれないね(笑)」と返し、苦笑いを浮かべるのは、佐倉市役所・企画政策部長、向後(こうご)氏。
企画政策部長といえば、市長・副市長に次ぐ事務方の要職であり、庁内の重要政策を取りまとめるポストです。しかし、そこにいるのは部下と冗談を言い合える飾らないリーダーの姿でした。
理系技術者の道から、あえて「事務職」として飛び込んだ公務員の世界。環境部門の立場から、バブル期の開発行政と対峙し、「ホタルを守って飯が食えるか!」と怒号を浴びたことも。そして、予想外の異動先で学んだ「政治」のリアル。
「環境職員は変人であれ」。かつて市長から授かった言葉を胸に、一人の工業化学専攻出身の青年がいかにして佐倉市の未来を描く「政策のプロ」となったのか。その軌跡と、次世代に託す“大人の議論”の本質に迫ります。

【目次】
- 「行政マンにならないと、政策は打てない」
- 「ホタルを守って飯が食えるか!」バブル期の洗礼
- 予想外の異動、そして揺るぎない信念「議員を守ることが役割」
- 30年越しの伏線回収──佐倉から発信する「循環型社会」
- これからの佐倉市役所に求める「大人の議論」
「行政マンにならないと、政策は打てない」
──まずは、向後部長のルーツについてお聞かせください。
向後: 明治大学の工業化学科に所属し、当時の国立公害研究所(現・国立環境研究所)に外研という形で出入りして、卒業論文のための研究をしていました。
卒論テーマは「閉鎖性水域の水質浄化」。印旛沼や東京湾といった閉鎖された水域は、どうしても水質汚濁が進んでしまう。そこで、生活雑排水に含まれる窒素やリンを、除去する基礎研究に取り組んでいました。

研究の一環として、筑波山の裏手にある八郷町(現・石岡市)で1年間のフィールド実験もやりました。「365日24時間拘束だから」なんて言われてね(笑)。他大学の学生たちと一つ屋根の下で寝食を共にしながら、分析と実験を繰り返す日々でした。
──そこからなぜ、研究職ではなく佐倉市役所へ?
向後: 私は元々、八街にある蕎麦屋の息子なんです。両親が高齢だったこともあり、卒業後は地元に戻らなければならない事情がありました。しかし、地元で「工業化学」の知識を活かして就職できる場所は、なかなか無い。
そこで頭に浮かんだのが、研究対象としていた「印旛沼」を持つ、佐倉市でした。ここなら、自分が学んできた知識を活かせるのではないかと。そして進路を決める際、お世話になっていた研究所の先生から言われた言葉が、私の進路を決定づけました。
「市役所は、都道府県や政令市と違って自前の研究機関を持たない。だから、もし君が技師として入ったら、ただの技術屋で終わってしまうかもしれない」そして、先生は続けました。
「市役所に行くなら、事務屋さん(行政職)で入りなさい。行政マンにならないと、政策は打てないぞ」
技術だけでなく、政策として街を動かせる人間になりなさい、と。その言葉もあって、私は理系のバックグラウンドを持ちながらも、「行政職」として佐倉市役所に入庁することにしました。

「ホタルを守って飯が食えるか!」バブル期の洗礼
──入庁後は、環境部門へ配属されたのでしょうか。
向後: はい。入庁してからの9年間は環境保全課に配属されました。そこは、激動の現場でした。 私が採用された昭和63年は、バブル経済の絶頂期。佐倉市内でもあちこちで開発計画が持ち上がり、「いかに宅地を作るか」「いかに道路を通すか」が優先されていた時代です。
一方で、公害や環境破壊という問題もありました。入庁した年、市内で「地下水汚染」が発覚したのです。
──具体的にはどのような問題だったのですか?
向後: クリーニング店などで洗剤として使われていた、有機塩素系化合物が原因でした。これらは化学的に非常に安定しているため重宝されていたのですが、「安定している」ということは、「自然界で分解されにくい」ということでもあります。
これらが地下に浸透し、佐倉市の水道水源である地下水にまで到達する恐れがありました。発がん性物質であり、人体でも分解できない毒物のようなものです。
私は化学が専門でしたが、地下水の汚染となると地質の知識も必要になります。千葉県の県立水質保全研究所の先生のもとに毎週通い詰め、ゼロから教わりながら対策に奔走しました。

──開発と環境保全の板挟みになることもあったのでは?
向後: 大いにありました。「住宅地問題協議会」といって、関係部局が集まって民間の開発案件を協議する場があるのですが、そこでの調整は大変でした。 他の部署が「ここに道路を通そう」「これだけの住民が住めるようにしよう」と開発を進める中で、私たち環境部門だけが「待った」をかけるわけですから。
例えば、平成4年の調査でホタルが生息していることが分かった時、「自然を守るためにここには道路を通せない」などと意見すると、怒鳴られることもありました。
「お前ら、ホタルホタルって言うけど、ホタルを守って飯が食えるのか!」と。
それでも、私たちはスタンスを変えませんでした。なぜなら、入庁して間もない頃、当時の市長(菊間市長)から言われた言葉があったからです。
「環境の職員は、変人でいいから」
市長は「周りはみんな開発志向だが、環境担当だけは規制する側だ。それでも、お前たちは変人になれ」と。トップからこの言葉をいただけたのは、本当に心強かったですね。「あ、このまま押し通していいんだ」と思えましたから。
市として守るべきものは、10年後、20年後、もっと先の未来を見据えて判断しなければなりません。その分岐点で、「NO」と言えるかどうかが重要なんです。

予想外の異動、そして揺るぎない信念「議員を守ることが役割」
──その後、9年間在籍した環境部門を離れ、企画政策部門、そして「議会事務局」へ異動されます。
向後: 38年間ずっと環境にいるんだろうなと思っていたので、正直驚きましたよ。「どこで道を外したのかな」って(笑)。 結果として、環境にいたのは通算で11年、企画が13年、議会事務局が9年などでした。
そして、議会事務局は、市議会の運営をサポートする部署です。環境部門や企画部門で執行部(市役所側)として政策を作ってきた自分が、今度は議会側を支えることになりました。

──議会事務局では、どのようなことを意識されていたのですか?
向後: 心がけていたのは、議員さんに「正直に話すこと」です。事務局職員の役割は「議員を守ること」だと私は思っていました。
議員さんからは、議事運営だけではなく、市政運営や地域課題など、様々な事項について相談されることがあります。これは、自分の考えを職員に肯定してもらうことで、自信を持って発信するための確認作業であることが多かったと捉えています。
ただ、私の考えと異なる場合や、市全体を見た時に疑問符が残るような時は、しっかりと、その理由を含め、お伝えするよう努めていました。私としては、無責任に同調するのではなく、良い意味で「ダメ出し」することで、自らの考えを整理する機会にしてほしいと思っていたからです。

──はっきり伝えるのですね。
向後: ええ。時には「職員が議員に対して言い過ぎではないか」とお叱りを受けたこともあります(笑)。でも、「皆さんを守るために言っているんです」というスタンスは崩しませんでした。 そうやって本音で向き合い、膝詰めで議論を重ねていくうちに、少しずつ信頼していただけるようになったと感じています。
地方自治において、議会の承認なしには仕事はできません。極端な話、ペン一本買うのにも議会の議決が必要です。その意味で、議会事務局時代に培った「顔の見える関係」は、今の企画政策部長としての仕事、つまり「総合調整」に非常に役立っています。
組織上、議会との窓口は総務部が担うのですが、我々企画政策部も政策を作る上で、庁内の調整や議会への説明が欠かせませんから。
30年越しの伏線回収──佐倉から発信する「循環型社会」
──38年間のキャリアの中で、特に「過去の取り組みが、現在の佐倉市のプロジェクトにつながっている」と感じる事例はありますか?
向後: まさに今、農研機構(農業・食品産業技術総合研究機構)や担当部局と連携して進めている、「バイオ炭」を使った実証実験があります。
(参照:バイオ炭を活用したゼロカーボンシティへの取組について)
佐倉市内には手入れされずに放置された竹林が多くあり、崖崩れの原因にもなっています。この余剰な竹を炭にして農地に撒くのです。竹はそのまま腐らせるとCO2を排出してしまいますが、炭にすることで炭素を土の中に長期間固定できるので、CO2削減につながります。

実はこのプロジェクト、私が平成7年(1995年)に担当した「自然環境調査」がルーツにあるんです。
当時、100平方キロある佐倉市の自然環境をすべて調査するには、予算が足りなかった。そこで、「市民ボランティア調査団」を結成しました。専門家のレクチャーを受けて、市民自らが地域の自然を調べる仕組みを作ったんです。
その時に生まれたボランティアチームが核となり、30年経った今も「里山自然公園(旧・畔田谷津)」の保全活動を続けてくれています。


彼らが守り続けてくれた里山から出る竹を、今度は市として「バイオ炭」として活用する。さらに、市内の特別支援学校とも連携して、このバイオ炭を使った畑でサツマイモなどを栽培してもらっています。

これらを繋ぎ合わせて、「環境に配慮して作られたブランド野菜」として、環境に配慮した生活を意識している方々に、少し高くても買ってもらえるような仕組みを作ること。それが、私が思い描く「街のブランディング」でもあります。
30年前に作った市民参加の仕組みが、形を変えながらも続いていて、それが今、最先端の農業振興や福祉ともつながっている。単年度で終わる仕事ではなく、長い時間軸で街の景色に関わっていける。それこそが、市役所の仕事の面白さですね。
これからの佐倉市役所に求める「大人の議論」
──現在、部長として3つの課(秘書課、企画政策課、広報課)を統括されています。どのようなチーム作りを意識されていますか?
向後: お世辞抜きで、本当に優秀な3人の課長に助けられています。それぞれが、どこか光る才能を持っていて、私の足りない部分を補ってくれています。

例えば、広報課長は、私とは対照的なタイプです。 私はどちらかというと慎重派で、細かいところまで一つひとつ積み上げないと自信を持って発信できないんですが、彼は柔軟でクリエイティブな発想を持っていて、それをすぐに形にできる。広報という仕事にはまさに適任で、私にないスピード感を持っています。
企画政策課長は、以前も私の部下だった女性なんですが、彼女は非常に緻密で、対話の力がある。 政策を調整する中では、厳しい意見やネガティブな話も出てきます。彼女はそういった話もしっかりと受け止められる強さと、粘り強く人と向き合う姿勢を持っています。
そして秘書課長。彼は市長や副市長の公務を支える重要なポジションですが、いい意味で「大らか」なんです。 トップの近くには様々な圧力やトラブルが降りかかりますが、彼はそれを真正面から受けて潰れることなく、しなやかにかわし、逸らすことができる。公務が円滑に進むよう調整する能力に長けています。
──三者三様、全く違うタイプの課長さんが揃っているんですね。
向後: そうなんです。タイプの異なる三人が、その個性を生かし、サポートしてくれる環境に感謝しています。個性や能力の違う職員が、時にはぶつかり、議論することで、一人では成し得ない大きな仕事が動いていく。そんなチームでありたいと思っています。
連携、協力によるまちづくりを標榜する西田市長。大きさや形の違う歯車が有機的に組み合わさり、大きな力を発揮することこそ、市長が求める「オール佐倉」であると確信しています。

──では最後に、これから佐倉市役所を目指す学生や求職者の方へメッセージをお願いします。
向後: 佐倉市を良くしたいという想いのある方に来てほしいですね。その上で、特に求めたいのは、「大人の議論ができる人」です。
かつてのような、決まった法令を運用するだけの時代は終わりました。人口減少の中で街を生き残らせるには、正解のない問いに立ち向かわなければなりません。
だからこそ、自分の意見を持っていてほしい。「部長、それは違います」「環境を守るためには、この視点が必要です」と。
──上の人に対しても、意見を言っていいのでしょうか。
向後: もちろんです。かつて私が「変人でいい」と言われて開発部門と議論したように、私に対しても、あるいは市長に対しても、恐れずに反対意見(アンチテーゼ)を投げかけてほしい。
もちろん、ただ反対するだけではダメです。相手の背景や事情も理解した上で、「では、どうすれば両立できるか」という対案を持ち寄り、ぶつかり合いながら、より高い次元の答え(ジンテーゼ)を導き出す。それが私の言う「大人の議論」です。
これから入る皆さんにも、ぜひ「変人」になることを恐れず、佐倉市のために熱く議論してほしい。 そんな気骨のある方と働けることを、楽しみにしています。
【取材の裏側】
「本当に動けなくなるかも……(笑)」 有言実行のデカ盛りチャレンジ!
インタビュー終了後、向後部長たちが向かったのは地下食堂。 話題になっていた「総重量1.3キロ越え・デカ盛り肉丼」がついにテーブルへ運ばれてきました。

「これは……想像以上だね」 そう苦笑いしつつも、箸を持つ手を進めます。

そして、生クリームだけでコップ1杯行けるという向後部長に、部下からデザートの差し入れも。

はち切れそうになりながらも、完食!
政策論での鋭い眼差しとは一転、食と部下との会話を楽しむその姿に、「変人であれ」と語るリーダーの、愛すべき人間味が溢れていました。
取材・文:パブリックコネクト編集部 (2025年11月取材)
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